道の駅あいおいの「かき巻」は絶品だった!

木曜日の休診日を利用して夫婦で龍野と相生までドライブに行って来ました。妻を津田宇水産のレストランに連れて行ってやろうと密かに画策したのです。(結婚した途端にパートナーをお洒落な所に連れていかなくなっているあなた。私を見習うように。)

山陽自動車道で龍野ICで降りて南下し、御津から相生のペーロン道の駅へ抜けて、龍野西ICまで行って山陽道で帰ってくるルートです。(その逆でも良い)

龍野ICと道の駅みつの位置関係はこんな感じです。
ついた、ついた、潮風が気持ち良い、素晴らしい道の駅「みつ」
潮風を胸一杯に吸い込んで、生き返ります。
播州生まれの播州育ちの私には「播州」の文字は「もうええわ・・・。」という位に見飽きています。播州→姫路→高砂→白陵→暗黒の学生時代と、連鎖的に思い出しちゃうし。
だから、播州はもうええわ。でも、美味しそう。買おうかな・・・?
こちらは駐車場にあるお洒落なスタンドショップ。
看板が面白い!
こんな植物も格安で販売されています。
名付けて「ゆめオイスター」だそうです。座布団持って来い!
瀬戸内の地物エビも販売中。地物は安心ですよね。

お腹がペコペコになっていましたが、そのまま、津田宇水産目指して湾岸ドライブ。津田宇のカキフライ定食を腹いっぱい食べるぞ!

でも、せっかく到着したのに閉まっていた・・・。津田宇水産は水曜日と木曜日が定休日だそうです。
更に悪い事に、近所のレストランも津田宇水産に合わせるように軒並み閉まっています。

結局、ファミマでおにぎりやサンドイッチやざるそばを買って車内で食べる事になっちゃいました。お洒落なお店で喜ばせるつもりが、最低のデートとなってしまいましたが、妻は文句も言わずに付き合ってくれました。良かった。

道の駅あいおいのスタンドショップでこのような商品を発見!関西の複数のテレビで紹介されたそうで、知る人ぞ知る人気商品との事。
こちらのショップのご夫婦が魚のすり身から作っているそうで、中には相生のカキが丸ごと1匹入っているとの事。どんなんやろ?
妻と私と一つずつ買って食べてみる事にしました。
熱々に温めて、手渡してくれました。ガブリとやってみたらこんな感じ。
シソの風味が効いた練り物の中には牡蠣とそのエキスが封入されていて、最高に旨い!磯の香りがするぞ。
これで1個250円は安すぎないか!?1個400円しても不思議では無い手間暇とボリュームと味でした。
「お姉さん、生中一杯持ってきてくれ。」と言いたくなります。

お持ち帰り用に10個追加購入させて頂きました。お姉さん曰く、通は温めずに冷えたままで食べるとの事。本当はその方が美味しいそうです。ご主人が作ったら少々細い商品が並ぶとの事。お姉さんが作ると、同じ250円でも今日のように「極太くん」が並ぶそうです。面白いね。

「三田から来ました。またこれだけ買うために来ますね。」と言うと、とっても嬉しそうな笑顔を返してくれました。

皆さんも是非、龍野と相生の道の駅に行ってみて下さいね。

松本から三田に帰ります

昨日は午前中打ち合わせ、午後からは3時間立ちっぱなしで学生実習のインストラクターという仕事内容でした。

朝の5時半起床で神戸から飛行機に乗っての移動でしたから、夕方にはかなり疲れておりましたが、岡山大学の同級生の十川教授が松本にある郷土料理屋さん「しづか」に連れて行ってくれて、美味しい郷土料理に舌鼓を打ちすっかり元気になりました。

ここ、「しづか」はおでんが美味しいそうです。Don’t miss it.
2次会はここ。松本で知らない人はいない程有名なショットバーです。
朝10時20分発神戸行きのFDA で三田に帰ります。

松本歯科大学へ出張中

今日は休診にさせて頂き、松本歯科大学に来ております。臨床講師を拝命していますので、学生の実習に臨床医の立場から参加させて頂く為です。

前回は車中泊しながら車で行きましたが、今回は飛行機で行く事にしました。

数年前のイメージと違って、搭乗のお客さんでとても賑わっておりました。
フジドリームエアラインにお世話になります。
オレンジ色の機体の向こうに船が見えます。神戸らしい光景ですよね。
久々の飛行機にワクワク。コロナ以降は乗っていませんでした。又アメリカに行きたくなってきた。
たった1時間のフライトでも軽食を出してくれます。FDA、有難う。
松本空港に到着。
松本歯科大学の前でパチリ。
UCLAのような広々としたキャンパスです。

岡山大学歯学部・万歳!

昨日の日曜日、大阪口腔インプラント研究会の第150回を記念する学術講演会が開催されました。ビッグネームの講師をお招きして華々しく取り行われ、会場は満員の参加者で埋め尽くされていました。

私は一番前の真ん中の席に陣取って講演を拝聴しておりました。講師が岡山大学歯学部教授、岡山大学副学長の窪木先生だったからです。

凄い先生なのですが、実は岡山大学の1年上の先輩で、学生時代は同じアパートに住んでいた仲なのです。

3時間に及ぶ熱弁を振るう窪木教授。体からみなぎるパワーとオーラに圧倒されます。
窪木教授は凄い先生ですが、演台から降りられたら即、岡山大学歯学部の1期生と2期生の関係に戻れます。
講演会後の懇親会ではさながら岡山大学歯学部・軽音楽部のリユニオンの様相でした。ドラム、ギター、ボーカル担当が揃っており、このまますぐにバンドを組んで演奏できそうです。
高校からずっとギターを弾いている岡山大学の後輩と共に。私に「英保先生、もう一度ドラムを叩きませんか?ジャズドラムを習って、セッションしましょう。」と言ってくれました。ちょっとその気になってきております。

大阪大学や大阪歯科大学、広島大学など歯学部のある大学は多いですが、自分達から見ても、他大学出身の先生方から見ても、恐らく岡山大学歯学部卒業生の一体感は抜きん出ていると感じるのではないかと思います。

レトロなせりふですが、「岡山大学歯学部・万歳!」と言わせて下さい。

沢蟹 from 高知県

我が家では、中3と小5の男の子二人が(反抗期で)大変な時期なので、私達夫婦のささやかな気晴らしは夕食後の皿洗いが終わった後にちょっと買い物に行く事くらいです。

で、先日の夜は、妻とトライアルに買いものに行って来ました。
いつもは私が妻を探してキョロキョロしているのですが、昨夜は何故か妻が私の事を探して話しかけてきました。珍しい事もあるもんだ。

「この間、下の子と川に沢蟹を捕まえに行ったんだけど半日かけても全然捕まえられなくて意気消沈していたんです。でも、ここに沢蟹がこんなに売っていたんです。しかも全部生きている。」
と言って、写真のような組み合わせで私の所に持って来ました。

妻が高知産の食用の沢蟹と共に持って来て見せてくれたのは巨大な飼育ケース。何を考えてんねん!

最近、 You Tube でスーパーで買ってきた食用の伊勢海老を飼育してみたとか、食用のモクズガニを飼育してみたとか、そういった動画を見ていたので、世の中にそのような変わった事をする人がいるのは知っていました。

まさか、自分の家族が同様の事を考え出すなんて夢にも思わず・・・。

それでも、世のお父様方同様に、私も妻の意見には逆らえず、「買って、やってみたら?」と笑顔で(ひきつっていたかも知れませんが)答えました。

で、その結果・・・。

数日経ちましたが、ゴソゴソと元気に動き回っております。雑食だそうで、米粒やキャベツなど何でも食べます。毎日飼育ケースを洗わないとニオイがするようになるので、砂利とかは入れないそうです。ケースを少し斜めにして水溜まりを作ってあげているようです。

パックに入っていた15匹のうち、弱っていた2匹は他界してしまいましたが、残りの13匹は生きています。友人に「高知から三田までやって来た沢蟹が元気に生きている。」と言うと、「低温で仮死状態にして輸送したんでしょうね。」と教えてくれました。

きっと養殖だと思うのですが、大事に養殖して育てて、低温仮死状態にして、15匹数えてパックに詰めて、低温輸送車で三田まで運んで、お店で並べて、その末端価格が1匹50円程度ですから、商売って本当に大変だと思います。

低価格・高品質が評価されている日本ですが、これだけ手間をかけても消費者からはこの値札程度の評価しか貰えないのですから、株などで不労収益を得ようと考える人が増えるのも理解できますね。

養殖だろうから、高知に連れて行って川に逃がしてやる訳にもいかないし、今後は一体どうなるのか・・・。又報告しますね。

episode 6:実りの秋が続いています(完)

転機は平成28年に起きました。開業して丁度20年程度、英保歯科の灼熱の夏が終わろうとしていた時です。

開業して10年目の頃、そうです、私が英保歯科の規模を拡大しようとしていた頃です。文科系の短大を卒業して就職してくれたある頭の良い女性がいました。彼女に一から歯科治療のイロハを教え込んで、約10年後にはすっかりプロ並みのスタッフになってくれて、英保歯科を支える大きな存在になってくれていました。

その彼女が英保歯科を卒業して新規開業される歯科医院に転職される事になったのです。私は丁度英保歯科の経営規模を縮小したいと思っておりましたし、彼女は英保歯科で学んだスキルを活かして(待遇などの条件が良く、長く勤められる)新しい歯科医院に勤めたいと思ったのでしょう。現代では、大企業ではキャリアアップのためにヒューマンリソースが流動するのは当然の事だと思いますが、私達中小企業は1人ベテランが退職すると現場のダメージが非常に大きい事も事実です。でも、私はその道をあえて選びました。

そしてそれを機会にこう考えました。「もっと、もっと、もっと。極限までありとあらゆるものをそぎ落としてみよう。そうすれば、きっと自然に英保歯科らしい(=英保裕和らしい)姿になってゆくはずだ。」と。

HPのトップに出てくる植栽の美しい英保歯科の外観は平成28年以前のものです。見た目は良いですが、草引きや掃除を私がしなければいけないので、本当に大変でした。当時の色々な事を思い出す引き金にするために、いまだにそのまま使っておりますが、現在の姿とは違います。

「植栽を切ってしまおう。看板も切って無くそう。そして、あれも、これも、捨ててシンプルに生きよう。」

その「徹底した断捨離」の結果が現在の英保歯科の姿なのです。

現在の英保歯科の外観。シンプルで、私らしくて、とっても気に入っています。「車止め」すら、あえて付けていません。

全く不安はありませんでしたが、現実には「それ以降、良い事しか起こらない」ので、自分でも断捨離の効果に驚いています。

経営規模を縮小して売り上げが半分以下になったので(フェラーリは諦めて)こちらのミッドシップスポーツカーにしました。国産の軽四だから維持費も修理代も外車のようにはかからないし、こっちの方が小さくてずっと楽しい(はず。フェラーリなんか乗った事ないから知らんけど)。でも、これでも十二分に贅沢でしょ?

その結果、口コミやこのHPで英保歯科の理念に共感して下さった方だけが来院されるようになりました。(看板が無いから当然ですが。)そして現在では、自由診療中心に、自分の知識や技術を存分に発揮できる仕事をさせて頂いております。歯科医師は技術者(職人)です。本当の職人は妥協した仕事をさせられるほど辛い事はないのです。

今は、これだけが看板です。

この「非常に良い状態」がもうかれこれ8年間も続いてくれています。この幸せな実りの秋が後2年といわず、5年、10年と続いて、英保歯科に冬の時代がやってこないように、まずは自分の心身の健康管理を徹底したいと思っております。
これからも宜しくお願いします。

追記:

この英保歯科のエピソードのシリーズを目にした英保歯科のスタッフが「英保先生、人生のまとめに入っちゃったんですか?歯医者を辞めないですよね?」と心配してくれました。笑。

「安心してください、働きますよ(Don’t worry. I’m working.)。」とにかく。

episode5:灼熱の夏

自分の店の経営規模を拡大して売り上げを上げる。マセラッティやフェラーリに乗って自分が成功者である事を見せつける。岡山大学の同級生や後輩の何人かがそんな風になってきていました。学生時代は歯医者の息子である私が一番リッチだったのですが、すっかり逆転されてしまいました。

これにしよう!

「遅ればせながら、自分も頑張ってみるかな?」そんな軽い気持ちで英保歯科の経営規模を大きくする事に着手しました。

診療台(チェアー)を7台に増やして、岡山大学の後輩の歯科医師2名に就職してもらい、受付のスタッフも大幅に増員しました。

その結果、売り上げは約2倍になり、もうすぐ医療法人化しなくてはという規模にまで大きくする事ができました。凄いでしょ?尊敬してくれます?

でも、そんな状況になっていても、私は全然ハッピーではありませんでした。

売り上げ2倍にはなりましたが、固定費は3倍、そしてストレスは4倍になっており、自分でも「もう限界かも」と思い始めていたある日の事です。昔からのお客様が「あちらの若い先生には失礼なのですが、私は英保先生に治療してもらいたいと思ってずっとここに来ているんですよ。」とおっしゃいました。また、他のお客様は「今の英保歯科は英保先生らしい雰囲気ではないと思います。」とも。

3年間ほど規模拡大に振っていた私ですが、その言葉を聞いてからは退職者が出ても増員せずに自然減に任せて、元の英保歯科のスタイルに収束させる事にしたのです。(フェラーリは諦める事にしました。)煩悩を持ったせいで自分の身に降りかかった色々な事項があります。それらの後始末に数年かかりましたが、合計約10年で英保歯科の夏は無事終わりました。

燃え盛るような夏はとても魅力的に見えますが、私には暑すぎたようです。

それに続く10年(現在進行形)は実りと収穫の秋となりました。経営的には収穫の秋ではありませんが、私の歯科医師人生に於いては最高にハッピーな10年となっております。

epsode4:春の嵐

私は少なくとも後10年、可能なら15年以上歯医者を続けさせて頂きたいと思っています。受付スタッフや歯科衛生士の先生方や英保歯科のお客様が許して下さってお付き合い下さるのなら。

英保歯科が出来てから約30年が経過しました。開業医としての歯科医師人生を春夏秋冬に置き換えて、10年を一区切りとするなら、最初の10年が春、次の10年が夏、その次の10年が秋、この先の10年が冬という感じになるかも知れません。

平成7年に33歳で開業してからの10年間は、春は春でも春の嵐のようでした。国立大学病院の看板の下で(勘違いして)偉そうにしていた30代前半の若造が、何の経験も無いまま、先輩からの指導も受けないまま、いきなりサービス業の店主になったのですからスムーズに行く訳がありません。しかも対象のお客様は日本一厳しい関西人です。

歯学部時代にそれなりに真面目に勉強していましたから、歯の治療方法については悩むことは少なかったのですが、対人的には毎日毎日が今までに経験した事の無いような失敗の繰り返しでした。

不幸な事に、白陵中学・高校では軍隊式教育というスパルタ的な指導を受けてきましたので、その事も目の前のスタッフやお客様の社会的価値観とのギャップを大きくする原因になっており、アジャストするのに大変苦労しました。太平洋戦争真っ只中の日本兵が軍服のままタイムマシンで平成のバブル時代のジュリアナに降り立ったようなものですから。

毎晩毎晩、自己反省や自己嫌悪に悩みながら頑張った10年でした。それでも何とか英保歯科が潰れずに続ける事ができたのは、英保歯科や私を見切らずに御贔屓にして下さったご近所のお客様の優しさと寛容のお陰だと、今さらながらに感謝しています。

さて、次の10年は夏。その頃は私も40代前半で元気一杯です。「事業をやる限りは、売り上げを伸ばすのが成功者の証」という事で、英保歯科の歯科医師を増員して経営規模を拡大する方向に舵を切る決断をしました。ホットな夏がやって来るはずです。

episode3:33歳で経営者になる

歯学部では、医療や哲学の勉強はしましたが、経営や経済の講義などは一切ありませんでした。昭和の時代ならいざ知らず、朝日新聞の作った名言「歯医者はコンビニより多い」と揶揄されるように、歯科医院の院長もサービス業としての立ち位置で健全な経営を行う責任があるのです。でも、バリバリの理系頭の33歳の若造が最初からそんなに上手に経営できるはずなどありません。

また、私が13年間を過ごした岡山は関西に比べると田舎なので、男尊女卑というほどではありませんが、女性が男性を立ててくれるような風潮がまだ残っていました。また、関西弁に比べると岡山弁はマイルドで優しく聞こえます。
中学・高校と男子校で過ごした私が久しぶりにそのような岡山からこの関西に帰って来た訳ですが、まずもって順応すべき課題は「関西の社会的風習・慣習になじむ」事でした。恐らく関東から関西に越してきた人と同様に、軽いカルチャーショックを克服する必要があったのです。

今から思えば、33歳当時の私に経営的手腕があったなら、今頃は大手の医療法人に成長していたかも知れません。でも、むしろ全く逆で、思いっきり理系(=技術職・職人)の方向に価値を感じてしまうのでした。まあ、経営者としては完全に失格ですが、性格は変えられないので仕方が無いですね。

2億円の借金返済の為には毎月100万円以上を銀行に納めなくてはなりません。そのためにアパートを借りる事はあきらめて、診療所の一角に仮眠部屋と小さなお風呂を設置してそこに住むことにしました。当時はまだ独身だったので、毎日診療が終わってからエルムプラザの阪急オアシスで割引になった総菜を買って来て、お風呂に入ってそれを食べて寝るという毎日でした。節約のために新聞もケーブルテレビも契約せずに、仙人のような生活を送っていました。若かったし、夢と希望があったから我慢できたのだと思います。

episode2:三田に診療所を開設する

「三田のニュータウンで歯科医院を開業するにはどうしたら良い?」

平成7年当時、まだスマホはおろかインターネットすら世の中に存在していませんでした。情報収集は知人や友人への電話や面会だけが頼りでしたし、SNSではなく「縁」や「運命的な出会い」が人生を左右する事が普通の時代でした。

岡山大学の1年後輩の西尾君(現在の神戸市北区歯科医師会長)が藤原台で歯科医院を開設しているという情報を得て、電話してみました。「英保先生、住宅都市整備公団という所に連絡して『三田市のニュータウンの医療ゾーンで歯科医院開設の意思がある。』と聞いてみて下さい。面接があって狭き門ではありますが、まずはそこからスタートです。」と教えてくれました。

当時の三田のニュータウンは物凄い人気で、住宅地の購入も抽選でした。20倍とか30倍とかいった高倍率だった記憶があります。

そのような「殿様商売状態」だった住都公団に電話して何とかアポイントを取り付け、大阪に出かけて行った時の事は昨日のように覚えています。

強烈な上から目線でしたが、それでも「次回はウッデイタウンのけやき台という所の医療ゾーンの募集が行われます。応募して頂いて、三田市歯科医師会の面接で選抜が行われます。合格したら200坪の土地を一括1億円で購入して頂きます。」との事でした。

「土地だけで1億円・・・。それに建物を建てるお金もいる。医療機器を購入するお金も。」
世間一般的には「結婚や家を建てる時や事業を始める時やには親から何がしからの援助」があるのかも知れませんが、小学校卒業と同時に家を出た私は、兄や弟とは異なり家庭内で相当に独立(孤立)した存在になってしまっており、親も自分自身も「援助する・される」という気が全くありませんでした。それでも父親が「借金するなら、保証人にはなってやる。」と言ってくれました。

「死ぬ気でやってみよう。」そう決意した私は三田市歯科医師会の面接を受けるためにアプリケーションフォームを書きました。(国立)岡山大学歯学部大学院卒・歯学博士。運よく父親はその時の兵庫県歯科医師会副会長でもありました。誰にも負けない気がしており、三田市歯科医師会の先生方も肯定的に捉えて私を選んで下さいました。

今から思えば、岡山大学の後輩の西尾君が「住都公団に聞いてみたら?」と言わずに「兵庫県に聞いてみたら?」と言っていたら英保歯科は今頃フラワータウンにあったか知れません。また、後2年早ければ英保歯科はあかしあ台に、2年遅ければ英保歯科はゆりのき台にあったかも知れません。そう思うと運命や縁やタイミングとは恐ろしいものだと思います。

また、三田市歯科医師会の先生方には「和を持って善しとする、普通の歯科医師」であると期待されていたと思うのですが、「自分の価値観を信じて人生を切り開く、普通じゃない歯科医師」が来てしまった事を申し訳なく思っております。(自分では『自分が普通で、世間がいつまでも変わらなさ過ぎる』と思っているのですが、それが「英保がノーマルじゃない」という事なんでしょうね。)

面接に合格したので、次は「取引のある地方銀行に2億のお金を貸してくれるようにアピールする」事と「理想の診療所を自分で設計する」事に着手しました。

お金は事業計画書が評価されて貸して貰える事になりました。また、医院の設計は深夜まで熟慮を繰り返し、設計士の先生に「もう自分の好きなようにしたら?」と言われる程に自分で考え抜いて平面図を書き上げたのです。(私は高校時代、医師や歯科医師より建築の設計士になりたいと思っていたのです。親の期待に沿うべく医療人になりましたが、今でも「ひょっとしたら設計士になっていた方が自分の才能を発揮できたのかも知れないな」と思ったりもします。