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毎日充実しています

コロナ自粛が解除されて英保歯科も3月以前の活気に戻りました。
今日は10分だけ休憩時間が取れたので、久しぶりに昼ご飯ありの土曜日にできました。本当は昼食を食べない方が精神が研ぎ澄まされた状態で1日を過ごせるのですが、あまりにも血糖値が下がるとヘロヘロになってくるので、今日は有難かったです。

自由診療の難しい治療が中心ですので一日に診察する人数は10名前後と決して多くはありません。それでもここのところはフルブッキングで当日のアポイントの御希望をお断りする程になっており、ほぼ毎日エンジン全開で働いています。
自宅に帰って夕食を食べたら、8時半に布団に入る末っ子と一緒に寝室に入って寝てしまうような毎日です。

ここでつい「毎日毎日忙しいなァ。」と言いそうになるのですが、忙しいという字は「心を亡くす」と書きます。

自分の発揮できる力を出し切って、お客様に心から喜んで頂いたり、感謝して頂いたりしています。結構な治療費をお願いしているにもかかわらずです。こちらの方が感謝しなければなりません。

毎日最高の雰囲気に包まれている今の英保歯科はどう考えても忙しくありません。「心亡き状態」とは程遠いのです。
「有難い事に、毎日充実しているなァ。」と言わないとバチが当たると思っています。英保歯科のファミリーの皆様全員に心からのお礼を申し上げたいと思います。

2%の法則を知って楽になろう

私は「不思議な事にこれもやっぱり『2%の法則』だな。」と思う事がしばしばあります。

私達が特許を持っている防湿装置ZOOの特徴を知って正しく使えば接着の質を高める事ができて、治療した歯のより一層の延命を図る事ができます。30歳代の頃からずっとこの素晴らしい装置ZOOを日本中はもちろん世界中に広めようという夢がありました。最近は思う所(断捨離)があって講演依頼の大部分をお断りしているのですが、3年程前までは国内や海外で良く講演をしていました。(その結果、日本と台湾ではZOOが相当有名になっています。)その講演の時にZOOの特徴や使い方なども紹介するのですが、何回も講演していると非常に面白い傾向がある事に気がつきます。

100人参加していたら、当日その場でZOOを購入して持ち帰る人が2人程度あります。たった2%ですがZOOの素晴らしさが解って「明日からZOOを使って良い治療がしたい」と強く思われる先生がおられるのです。

こんな話もあります。数年前に新聞の記事で読んだのですが、社会全体や会社やグループなどを本当に動かしているのは実はたった2%程度の人間で、他の98%はその2%の人間の能力に依存して存在しているという研究結果があるそうです。98%の人間は凡人か。確かに。

コロナで社会や経済のシステムが激変しつつあります。凋落傾向にある国や業界などに於いては一日も早く旧態然としたやり方を捨てて大胆に変わっていく事が必要なのですが、非常に多くの「できたら今のままで変わりたくない老若男女」がいます。こういった人の比率って何パーセントぐらいだと思います?私は98%だと思います。

自分の意見を述べても誰にも解ってもらえなかったり、信念を持って努力しても報われなかったり、誤解されて(?)仲間外れにされたり・・・。そんな時には「2%の法則だ。100人のうち2人解ってくれたら上出来だ。」と思うようにしたら少しは気が楽になりますよ。私はそうしています。

7月から10%になります。

英保歯科では6月末まで全ての治療費と衛生用品の消費税を8%に据え置いておりましたが、いよいよ7月1日から法定に従い10%に変更させて頂く運びとなります。
皆さんの「何すんねん!」という声が聞こえてきますが、そろそろお許し下さい。
歯ブラシを買うなら今月中がお得です。どうか宜しくお願いします。

『コロナ自粛』の問題

緊急事態宣言が解除されて、コロナ自粛に温度差が出てきています。

テレビを捨てて20年以上になる我が家ですが、そんな家庭の私でも5月はネットからのコロナ関連情報によって必要以上の恐怖心感じ、冷静な判断ができていない感がありました。
テレビを主たる情報源にされている方はすぐにわかります。まるで幽霊を怖がるかのように異常にコロナを怖がっていて、ほとんど何も起こっていない三田に住んでいながら「怖い、怖い。」と連呼されているからです。

私は最近はマスクをせずに徒歩通勤しています。ウッデイタウンの歩道ですのでソーシャルディスタンスは充分過ぎるくらい取れるているのですが、それでもマスクをしている人から白い目で見られている感じがして下を向いてしまいます。

三田の広いテニスコートで全員がマスクをしてプレーしているのを見て「あれだけ距離が離れているのにマスクをする意味があるのか?していないと白い目で見られるからするのだろうか?」なんて、ふと考えてしまいました。

以下は長文ですが、なかなか含蓄のある内容ですので良かったら読んで見て下さい。戦争をコロナ自粛とか環境問題とか政治問題とか、ありとあらゆる社会問題の項目に置き換えてみると面白いですよ。

『戦争責任者の問題』昭和二十一年 伊丹万作

さて、多くの人が、

今度の戦争でだまされていたという。

みながみな口を揃えてだまされていたという。

私の知っている範囲では

おれがだましたのだといった人間は

まだ一人もいない。

ここらあたりから、

もうぼつぼつわからなくなってくる。

多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、

それが実は錯覚らしいのである。

たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、

軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。

上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。

すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、

いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 

すなわち、だましていた人間の数は、

一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。

しかもそれは、

《だまし》の専門家と

《だまされ》の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、

いま、一人の人間がだれかにだまされると、

次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なく

くりかえしていたので、

つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、

むしろ国民自身だったのである。

私のような病人は、

ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、

たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、

たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、

親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。

もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、

思想的表現ではないのである。

しかるに我が同胞諸君は、

服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。

そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、

彼らは眉を逆立てて憤慨するか、

ないしは、

眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

 

少なくとも戦争の期間をつうじて、

だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、

だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、

直ぐ近所の小商人の顔であり、

隣組長や町会長の顔であり、

あるいは郊外の百姓の顔であり、

あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、

あるいは学校の先生であり、

といったように、

我々が日常的な生活を営むうえにおいて

いやでも接触しなければならない、

あらゆる身近な人々であったということは

いったい何を意味するのであろうか。

 

いうまでもなく、

これは無計画な癲狂(てんきょう)戦争の必然の結果として、

国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。

そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、

同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。

 

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。

《諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか》と。

たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、

戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったと言いきれる親がはたしているだろうか。

 

いたいけな子供たちは何も言いはしないが、

もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、

一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、

戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 

しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 

ここで私はその疑いを解くかわりに、

だました人間の範囲を最少限に見積もったらどういう結果になるかを考えてみたい。

 

もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、

非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、

はたしてそれによってだまされたものの責任が解消するであろうか。

 

だまされたということは、

不正者による被害を意味するが、

しかしだまされたものは正しいとは、

古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

だまされたとさえいえば、

一切の責任から解放され、

無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、

もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、

私はさらに進んで、

《だまされるということ自体がすでに一つの悪である》ことを主張したいのである。

 

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、

半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

我々は昔から《不明を謝す》という一つの表現を持っている。

これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

つまり、

だまされるということもまた一つの罪であり、

昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 

もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、

そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。

しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。

すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。

これが《不明》という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 

また、もう一つ別の見方から考えると、

いくらだますものがいても

だれ一人だまされるものがなかったとしたら

今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。

 

つまりだますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、

戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 

そしてだまされたものの罪は、

ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、

思考力を失い、信念を失い、

家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、

無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、

個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、

すなわち自我の放棄であり

人間性への裏切りである。

また、悪を憤る精神の欠如であり、

道徳的無感覚である。

ひいては国民大衆、

すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 

我々は、はからずも、

いま政治的には一応解放された。

しかしいままで、

奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、

彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、

日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

《だまされていた》という一語の持つ便利な効果におぼれて、

一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、

私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、

おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 

一度だまされたら、

二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、

それ以上に現在の日本に必要なことは、

まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、

だまされるような脆弱(ぜいじゃく)な自分というものを解剖し、分析し、

徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

人間の能力は無限だ

久々に「人間って才能と努力でここまでできるのか!」と感動した動画を紹介します。しかもこういったスーパーな人は若くしてその才能を発揮しますね。

私なんか50年以上かかってやっとこの程度ですので、いかに自分の才能と努力が足りないかを思い知らされます。

この健さんのギターはまるでカレンやプリンスが歌っているように聞こえてきます。是非聞いてみて下さいね。

助手のレベルに合わせて治療する

先日、天性の才能と想像を絶する努力によってある領域に達したバレリーナ(Vさん)のお話しをしましたが、彼女との会話の一つを紹介したいと思います。

私「歯の治療って、ついてくれた歯科助手の知識や腕のレベルに合わせて行う所があるんですよ。」
Vさん「?」
私「Vさんも誰かとペアで踊る時に相手が自分より遥かに優れた実力を持っている人なら、Vさん自身も自分の持つ実力を100%出して踊る事ができるでしょう?でも相手のレベルが低い時には自分のレベルを相手に合わせて落として踊るようになりませんか?」
Vさん「%$#! だから先生は一人で治療されているんですか。今の例えでよくわかりました。」 
私「さすがにインプラントのオペの時には手伝ってもらいますが、普段の治療はZOOという私達が特許をもっている道具を使って一人でやる方が100%思い通りに治療ができるんです。余分な気配(けはい)が無いと集中力も保てます。
ただ、20分でできる事が40分、40分でできる事が80分かかってしまいますけどね。
Vさんも一生のうちに何百回かの限られた回数しか公演ができないと思いますが、私も一生のうちに何万本かの限られた数の歯の治療しかできないんです。ですから毎回ベストを尽くしたいと思っています。」

断捨離もそうですが、このような気持ちで日々の治療に打ち込んでいるとスタッフや衛生士の先生方にも伝播するようで、ここ数年で英保歯科の雰囲気がドンドンピュアに、凛としてきました。そしてスタッフやお客様も含めてそこに集う人が「類は友を呼ぶ」ようになります。
他人(特に旧態然とした人々)に何と思われようが、自分なりの理念を持って生きるって、大切だとしみじみ思っています。

穏やかな父の日

雨も上がって爽やかな日曜日になりましたね。今日の午後は男子チーム3人で自転車探検に出かける約束です。何処に連れて行ってやろうかと思案中。

確か、今日は父の日の筈なのですが家族は完全に忘れているようです。別にイイけどね。「今日は父の日かな?」なんて呟いてみたのが末っ子に聞こえたらしくて、折り紙を2つ持って来て「これ上げる。お昼ごはんを食べたら一緒に自転車に行こうね。」と言ってくれました。

感性と価値観って大切。私にとっては宝物のようなギフトです。派手なサプライズや高価なプレゼントはもはや時代遅れかも知れません。

コロナ禍で社会のスピード下がっていますが、個人的には今の速度が本来の人間が生きる速さだと思っています。

子供と川に釣りに来ています。子供の頃に川で泳いでいた時の記憶が、せせらぎの音と川の匂いと川面を渡る風で鮮やかに蘇って来ました。音や匂いや皮膚の感覚の持つ力って凄いですね。

コロナが去ってもこのまま穏やかにゆっくり、人間らしく生きたいですね。

バレリーナと歯科医師

阪急沿線から遠路はるばる通院して下さっている素敵な女性がおられます。いつもシンプルで清潔感のある服装が良くお似合いなのですが、それもそのはず、彼女はプロのバレリーナなのです。容姿端麗なのはもちろんですが、私が感心するのはその性格と頭の良さです。私が説明する複雑な内容に対して素直に耳を傾け、瞬時に理解・消化して自分の考えや希望をちゃんと返してくれます。

どんな世界でも努力に努力を重ねて、卓越した領域に達した人には共通の特徴があるように感じています。「聡明・謙虚・無駄が無い」といったところでしょうか。私はバレエに関しては全くの素人なのですが、きっと彼女はかなり著名なダンサーなのだろうと想像しています。

そんな彼女は英保歯科の歯科治療の特徴について色々な質問をしてくれます。私も彼女と話をするのが楽しいので、ついつい多くを語ってしまいます。

今日の土曜日も忙しく、お昼ご飯を食べる時間がありませんでした。持って来た愛娘弁当をそのまま鞄に入れ直して「お腹空いたなァ。しかしまあ、『友あり遠方より来たる、また楽しからずや』だな。」なんて考えながら、家族の元へ向かいました。

接着歯科治療を成功させる3つのポイント

接着歯科というキーワードで検索して英保歯科のHPを訪問して下さる方が非常に多い事からも、皆さんがそれだけ接着歯科治療に興味と期待を抱いて下さっている事がわかります。有難い事です。

でも、接着治療は特別な治療方法ではありません。例えば、どこの歯科医院でもやっているコンポジットレジンという白い材料を歯に詰める治療方法(先生が時々ピッ、ピッと光を当てている、例のやつです)がありますが、あれは典型的な接着歯科治療です。

それでは私達、接着歯科治療認定医が行う接着とは何か違いがあるのでしょうか?それは単に「接着の質に対するこだわり」だけだと思います。

質の高い接着(=長持ちする接着)を実現するには3つの要素があります。

①様々な接着剤の組成や特性を熟知して「正しい場面に正しく使う」
②接着する面を「完全に清掃」して、プライマーなどの「表面処理を完璧に」行う
③必ずラバーダムやZOOなどの防湿装置を使用し湿度を下げて「パリパリに乾燥した表面」に対して接着操作を行う

これって建築や工業に携わっている理系の人や趣味でアクセサリーを作ったりしている方なら「なるほど。そりゃそうだわ。」と思って頂けるほどシンプルな要素ですよね。

接着歯科の成否の原因は先生が「わかっちゃいるけど邪魔くさいなァ。まあこの程度でいいや。」と思うか「も~、何がなんでも絶対に完璧な接着をしたい!」と拘るか、それだけの違いではないでしょうか。

その接着の質の違いが、その治療をいつどこでやってもらったかさえ忘れ去られてしまうような5年後、10年後に現れてくるのです。すぐには違いや良さがわからないのがまた面白いところです。まるで夫婦関係みたいでしょ。

チョット羨ましい、三田市民病院

三田市民病院に来ています。採血は全然痛く無く、私が大学病院の病棟で働いていた30年前とは採血器具もシステマテックで隔世の感があります。エコー検査も無事終了して、内科の診察を待っています。

外来の1階は物凄い患者さんの数とスタッフの数で賑やかです。私が大学を卒業して歯科医師になったばかりの時、歯だけでなくメディカルの医師のように全身の治療に関わりたいと思い、医学部に行き直そうと真剣に考えた事がありました。ですから、この様な活気溢れる総合病院の雰囲気に「いいなあ」と羨ましく思う面があります。

エコーと小児科の間の廊下は人通りが少なく静か。ここのベンチに座ってホッと一息。

しかし、これだけ人が動いているのに赤字経営とは不思議ですね。小さな歯科医院の院長の目から三田市民病院のスタッフの動きを拝見していると、改善できそうな点が沢山ありますが、現実には長年の習慣を捨てさせるのは難しく、又、全てのスタッフの雇用を継続してあげたいとも思う情も入るでしょうし、大きな船を操るのは本当に難しいでしょうね。

コロナ対策で張り紙がいっぱいの三田市民病院玄関。
もう少し厳選・要約しないと、きっと誰も読まないな。
高額な最先端の診療機器の導入は経営健全化に働くのか?それとも断捨離の方が賢明なのか?

三田市民病院とは対照的に、英保歯科はこじんまりした医院ですが、ありとあらゆる無駄を徹底的に排除していますので、今年のようにコロナ禍があっても現在のところ経営上の不安要素はありません。有り難い事だと思います。

「隣の芝生は青く見える」という言葉がまさに腑に落ちた、今日でした。