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episode 6:実りの秋が続いています(完)

転機は平成28年に起きました。開業して丁度20年程度、英保歯科の灼熱の夏が終わろうとしていた時です。

開業して10年目の頃、そうです、私が英保歯科の規模を拡大しようとしていた頃です。文科系の短大を卒業して就職してくれたある頭の良い女性がいました。彼女に一から歯科治療のイロハを教え込んで、約10年後にはすっかりプロ並みのスタッフになってくれて、英保歯科を支える大きな存在になってくれていました。

その彼女が英保歯科を卒業して新規開業される歯科医院に転職される事になったのです。私は丁度英保歯科の経営規模を縮小したいと思っておりましたし、彼女は英保歯科で学んだスキルを活かして(待遇などの条件が良く、長く勤められる)新しい歯科医院に勤めたいと思ったのでしょう。現代では、大企業ではキャリアアップのためにヒューマンリソースが流動するのは当然の事だと思いますが、私達中小企業は1人ベテランが退職すると現場のダメージが非常に大きい事も事実です。でも、私はその道をあえて選びました。

そしてそれを機会にこう考えました。「もっと、もっと、もっと。極限までありとあらゆるものをそぎ落としてみよう。そうすれば、きっと自然に英保歯科らしい(=英保裕和らしい)姿になってゆくはずだ。」と。

HPのトップに出てくる植栽の美しい英保歯科の外観は平成28年以前のものです。見た目は良いですが、草引きや掃除を私がしなければいけないので、本当に大変でした。当時の色々な事を思い出す引き金にするために、いまだにそのまま使っておりますが、現在の姿とは違います。

「植栽を切ってしまおう。看板も切って無くそう。そして、あれも、これも、捨ててシンプルに生きよう。」

その「徹底した断捨離」の結果が現在の英保歯科の姿なのです。

現在の英保歯科の外観。シンプルで、私らしくて、とっても気に入っています。「車止め」すら、あえて付けていません。

全く不安はありませんでしたが、現実には「それ以降、良い事しか起こらない」ので、自分でも断捨離の効果に驚いています。

経営規模を縮小して売り上げが半分以下になったので(フェラーリは諦めて)こちらのミッドシップスポーツカーにしました。国産の軽四だから維持費も修理代も外車のようにはかからないし、こっちの方が小さくてずっと楽しい(はず。フェラーリなんか乗った事ないから知らんけど)。でも、これでも十二分に贅沢でしょ?

その結果、口コミやこのHPで英保歯科の理念に共感して下さった方だけが来院されるようになりました。(看板が無いから当然ですが。)そして現在では、自由診療中心に、自分の知識や技術を存分に発揮できる仕事をさせて頂いております。歯科医師は技術者(職人)です。本当の職人は妥協した仕事をさせられるほど辛い事はないのです。

今は、これだけが看板です。

この「非常に良い状態」がもうかれこれ8年間も続いてくれています。この幸せな実りの秋が後2年といわず、5年、10年と続いて、英保歯科に冬の時代がやってこないように、まずは自分の心身の健康管理を徹底したいと思っております。
これからも宜しくお願いします。

追記:

この英保歯科のエピソードのシリーズを目にした英保歯科のスタッフが「英保先生、人生のまとめに入っちゃったんですか?歯医者を辞めないですよね?」と心配してくれました。笑。

「安心してください、働きますよ(Don’t worry. I’m working.)。」とにかく。

episode5:灼熱の夏

自分の店の経営規模を拡大して売り上げを上げる。マセラッティやフェラーリに乗って自分が成功者である事を見せつける。岡山大学の同級生や後輩の何人かがそんな風になってきていました。学生時代は歯医者の息子である私が一番リッチだったのですが、すっかり逆転されてしまいました。

これにしよう!

「遅ればせながら、自分も頑張ってみるかな?」そんな軽い気持ちで英保歯科の経営規模を大きくする事に着手しました。

診療台(チェアー)を7台に増やして、岡山大学の後輩の歯科医師2名に就職してもらい、受付のスタッフも大幅に増員しました。

その結果、売り上げは約2倍になり、もうすぐ医療法人化しなくてはという規模にまで大きくする事ができました。凄いでしょ?尊敬してくれます?

でも、そんな状況になっていても、私は全然ハッピーではありませんでした。

売り上げ2倍にはなりましたが、固定費は3倍、そしてストレスは4倍になっており、自分でも「もう限界かも」と思い始めていたある日の事です。昔からのお客様が「あちらの若い先生には失礼なのですが、私は英保先生に治療してもらいたいと思ってずっとここに来ているんですよ。」とおっしゃいました。また、他のお客様は「今の英保歯科は英保先生らしい雰囲気ではないと思います。」とも。

3年間ほど規模拡大に振っていた私ですが、その言葉を聞いてからは退職者が出ても増員せずに自然減に任せて、元の英保歯科のスタイルに収束させる事にしたのです。(フェラーリは諦める事にしました。)煩悩を持ったせいで自分の身に降りかかった色々な事項があります。それらの後始末に数年かかりましたが、合計約10年で英保歯科の夏は無事終わりました。

燃え盛るような夏はとても魅力的に見えますが、私には暑すぎたようです。

それに続く10年(現在進行形)は実りと収穫の秋となりました。経営的には収穫の秋ではありませんが、私の歯科医師人生に於いては最高にハッピーな10年となっております。

epsode4:春の嵐

私は少なくとも後10年、可能なら15年以上歯医者を続けさせて頂きたいと思っています。受付スタッフや歯科衛生士の先生方や英保歯科のお客様が許して下さってお付き合い下さるのなら。

英保歯科が出来てから約30年が経過しました。開業医としての歯科医師人生を春夏秋冬に置き換えて、10年を一区切りとするなら、最初の10年が春、次の10年が夏、その次の10年が秋、この先の10年が冬という感じになるかも知れません。

平成7年に33歳で開業してからの10年間は、春は春でも春の嵐のようでした。国立大学病院の看板の下で(勘違いして)偉そうにしていた30代前半の若造が、何の経験も無いまま、先輩からの指導も受けないまま、いきなりサービス業の店主になったのですからスムーズに行く訳がありません。しかも対象のお客様は日本一厳しい関西人です。

歯学部時代にそれなりに真面目に勉強していましたから、歯の治療方法については悩むことは少なかったのですが、対人的には毎日毎日が今までに経験した事の無いような失敗の繰り返しでした。

不幸な事に、白陵中学・高校では軍隊式教育というスパルタ的な指導を受けてきましたので、その事も目の前のスタッフやお客様の社会的価値観とのギャップを大きくする原因になっており、アジャストするのに大変苦労しました。太平洋戦争真っ只中の日本兵が軍服のままタイムマシンで平成のバブル時代のジュリアナに降り立ったようなものですから。

毎晩毎晩、自己反省や自己嫌悪に悩みながら頑張った10年でした。それでも何とか英保歯科が潰れずに続ける事ができたのは、英保歯科や私を見切らずに御贔屓にして下さったご近所のお客様の優しさと寛容のお陰だと、今さらながらに感謝しています。

さて、次の10年は夏。その頃は私も40代前半で元気一杯です。「事業をやる限りは、売り上げを伸ばすのが成功者の証」という事で、英保歯科の歯科医師を増員して経営規模を拡大する方向に舵を切る決断をしました。ホットな夏がやって来るはずです。

episode3:33歳で経営者になる

歯学部では、医療や哲学の勉強はしましたが、経営や経済の講義などは一切ありませんでした。昭和の時代ならいざ知らず、朝日新聞の作った名言「歯医者はコンビニより多い」と揶揄されるように、歯科医院の院長もサービス業としての立ち位置で健全な経営を行う責任があるのです。でも、バリバリの理系頭の33歳の若造が最初からそんなに上手に経営できるはずなどありません。

また、私が13年間を過ごした岡山は関西に比べると田舎なので、男尊女卑というほどではありませんが、女性が男性を立ててくれるような風潮がまだ残っていました。また、関西弁に比べると岡山弁はマイルドで優しく聞こえます。
中学・高校と男子校で過ごした私が久しぶりにそのような岡山からこの関西に帰って来た訳ですが、まずもって順応すべき課題は「関西の社会的風習・慣習になじむ」事でした。恐らく関東から関西に越してきた人と同様に、軽いカルチャーショックを克服する必要があったのです。

今から思えば、33歳当時の私に経営的手腕があったなら、今頃は大手の医療法人に成長していたかも知れません。でも、むしろ全く逆で、思いっきり理系(=技術職・職人)の方向に価値を感じてしまうのでした。まあ、経営者としては完全に失格ですが、性格は変えられないので仕方が無いですね。

2億円の借金返済の為には毎月100万円以上を銀行に納めなくてはなりません。そのためにアパートを借りる事はあきらめて、診療所の一角に仮眠部屋と小さなお風呂を設置してそこに住むことにしました。当時はまだ独身だったので、毎日診療が終わってからエルムプラザの阪急オアシスで割引になった総菜を買って来て、お風呂に入ってそれを食べて寝るという毎日でした。節約のために新聞もケーブルテレビも契約せずに、仙人のような生活を送っていました。若かったし、夢と希望があったから我慢できたのだと思います。

episode2:三田に診療所を開設する

「三田のニュータウンで歯科医院を開業するにはどうしたら良い?」

平成7年当時、まだスマホはおろかインターネットすら世の中に存在していませんでした。情報収集は知人や友人への電話や面会だけが頼りでしたし、SNSではなく「縁」や「運命的な出会い」が人生を左右する事が普通の時代でした。

岡山大学の1年後輩の西尾君(現在の神戸市北区歯科医師会長)が藤原台で歯科医院を開設しているという情報を得て、電話してみました。「英保先生、住宅都市整備公団という所に連絡して『三田市のニュータウンの医療ゾーンで歯科医院開設の意思がある。』と聞いてみて下さい。面接があって狭き門ではありますが、まずはそこからスタートです。」と教えてくれました。

当時の三田のニュータウンは物凄い人気で、住宅地の購入も抽選でした。20倍とか30倍とかいった高倍率だった記憶があります。

そのような「殿様商売状態」だった住都公団に電話して何とかアポイントを取り付け、大阪に出かけて行った時の事は昨日のように覚えています。

強烈な上から目線でしたが、それでも「次回はウッデイタウンのけやき台という所の医療ゾーンの募集が行われます。応募して頂いて、三田市歯科医師会の面接で選抜が行われます。合格したら200坪の土地を一括1億円で購入して頂きます。」との事でした。

「土地だけで1億円・・・。それに建物を建てるお金もいる。医療機器を購入するお金も。」
世間一般的には「結婚や家を建てる時や事業を始める時やには親から何がしからの援助」があるのかも知れませんが、小学校卒業と同時に家を出た私は、兄や弟とは異なり家庭内で相当に独立(孤立)した存在になってしまっており、親も自分自身も「援助する・される」という気が全くありませんでした。それでも父親が「借金するなら、保証人にはなってやる。」と言ってくれました。

「死ぬ気でやってみよう。」そう決意した私は三田市歯科医師会の面接を受けるためにアプリケーションフォームを書きました。(国立)岡山大学歯学部大学院卒・歯学博士。運よく父親はその時の兵庫県歯科医師会副会長でもありました。誰にも負けない気がしており、三田市歯科医師会の先生方も肯定的に捉えて私を選んで下さいました。

今から思えば、岡山大学の後輩の西尾君が「住都公団に聞いてみたら?」と言わずに「兵庫県に聞いてみたら?」と言っていたら英保歯科は今頃フラワータウンにあったか知れません。また、後2年早ければ英保歯科はあかしあ台に、2年遅ければ英保歯科はゆりのき台にあったかも知れません。そう思うと運命や縁やタイミングとは恐ろしいものだと思います。

また、三田市歯科医師会の先生方には「和を持って善しとする、普通の歯科医師」であると期待されていたと思うのですが、「自分の価値観を信じて人生を切り開く、普通じゃない歯科医師」が来てしまった事を申し訳なく思っております。(自分では『自分が普通で、世間がいつまでも変わらなさ過ぎる』と思っているのですが、それが「英保がノーマルじゃない」という事なんでしょうね。)

面接に合格したので、次は「取引のある地方銀行に2億のお金を貸してくれるようにアピールする」事と「理想の診療所を自分で設計する」事に着手しました。

お金は事業計画書が評価されて貸して貰える事になりました。また、医院の設計は深夜まで熟慮を繰り返し、設計士の先生に「もう自分の好きなようにしたら?」と言われる程に自分で考え抜いて平面図を書き上げたのです。(私は高校時代、医師や歯科医師より建築の設計士になりたいと思っていたのです。親の期待に沿うべく医療人になりましたが、今でも「ひょっとしたら設計士になっていた方が自分の才能を発揮できたのかも知れないな」と思ったりもします。

episode1:三田市で開業を決意する

英保歯科は7月で開業28年目に入ります。地域の皆様、英保歯科のロイヤルカスタマーの皆様、衛生士の先生方、受付スタッフ、歯科業界の業者さん、私の全ての皆様に感謝・感謝・感謝しかありません。

父親が兵庫県宍粟市(中国自動車道の山崎インターがある所)で歯医者をやっていた関係から、私も歯科医師になりました。

白陵高校を卒業する時に大学を3つ受験しました。共通一次(今のセンター試験)で運よく白陵理系の中で2番の順位を取れた事もあって、進路指導の先生が「阪大でもどこでも通るやろ。受験したら?」と言って下さったのですが、受験勉強のストレスで体調が非常に悪く、国立に行きたいが、浪人は絶対にしたくないという気持ちを教師に告げて、新設の岡山大学を受験させて貰う事にしました。
結果的には、岡山大学歯学部と兵庫医科大学医学部と大阪歯科大学の全てに合格していたのですが、親に経済的負担をかけたくないという思いを胸に秘めつつ「(国立の)岡山大学に行きたい」と告げた時から、今の私の運命に軌道が繋がったのです。

2期生で入学した岡山大学の教室では、いつも最前列の真ん中に座って講義を聞いていました。そして「将来は絶対に母校・岡山大学歯学部の教授になる。」という強い決意をもって岡山大学の大学院に進学させてもらいました。私立の大阪歯科大学に進学した兄と弟に比べて、授業料や生活費が安かったので大学院に行く費用を出してもらう事ができたのです。

大学病院で7年間勤務し、(白い巨塔のイメージのある)医局と呼ばれる組織や、巨大で人の入れ替わりの激しい大学の病院には正の面と負の面がある事を身を持って知りました。元来、シンプルな生き方が好きな私ですから、重厚長大な組織の歯車に収まる事ができるはずもなく、自分の理念を具現化すべく(地元兵庫に帰って)歯科医院を開業するという方向に大きく舵を切ったのです。

白陵のスパルタ教育と6年間丸坊主と寮の軍隊式禁欲生活と柔道部の肥満体からの反動でダイエットしてサーファーになった私。人生で一番楽しかった頃。

宍粟市には鉄道や塾すら無く、「将来は医師か歯科医師になって欲しい」という親の期待に応えるべく、中学生から高砂の白陵の寮に入って(ここには書けないような)苦労を経験した私は「将来の自分の子供のために、せめて鉄道が通っている地域に住んでやりたい。そうすれば18歳位までは親元に置いてやれるから。」と思いながら、平成6年頃、開業場所を探していました。

大学時代にウインドサーフィンに没頭していた私は、神戸付近の海の見える場所に診療所を持ちたいという夢を持っていました。加古川や須磨、神戸西区などのニュータウンを中心にリサーチを進めていたのですが、あるきっかけで三田市の大規模ニュータウンの存在を知り興味を持ちました。ある日、山崎インターから中国縦貫道に乗り、神戸三田インターで降りて目前に広がる風景はそれまで持っていた三田市のイメージとはかけ離れたものでした。

「自然と建築物の調和がとれた、何て美しい街並みだろう。こんな素敵な場所に自分のオフィスを持てたら、そして、ここの住民と共に年齢を重ねる事ができたらどんなに素晴らしいだろう。」

そして、三田のニュータウンでの開業への道の模索が始まったのです。



ガムはもう OUT OF DATE かも

お口の恋人で有名なお菓子の会社の代表的な商品でもあるガム。でも、最近は売れ行きが激減しているとの事。
その代わりにグミの売り上げがアップしているそうです。

明治ガム事業撤退、5年で市場規模がグミと大逆転 カンロが攻勢:日経クロストレンド (nikkei.com)

この2日ほど連続で「ガムを噛んでいたら、歯が『バキッ』といって、それから痛くて噛めない。」とおっしゃるお客様が来院されました。

「キシリトールガムが歯に良いと思ってしょっちゅう噛んでいる。」とか「車の運転をしていて、眠くなったらずっとガムを噛んでいた。」との事でしたが、私からしたら「私は仕事中は食べた後の歯磨きする時間も取りにくいから、おやつやガムなど口に入れたりできないけどな。皆さんどんなタイミングでしょっちゅう間食をしているんだろう?」と不思議に思ったりします。

休日はこんな間食をガッツリ頂くような時間や心の余裕もありますが、仕事のある日は「朝食→歯磨き→仕事→昼食→歯磨き→仕事→夕食→歯磨き→風呂→寝る」のみ。だから平日は間食を食べる事が基本的にありません。但し、休みの前の夜はチートデイになっております。悪しからず。

人類が経験した事のないような、人生100年時代が現実になって来ておりますが、それに伴って歯も100年使う時代に突入しようとしております。歯に関しても過去に経験した事が無いほど長い期間使う事になります。

読者の皆様には歯をしっかり予防して、いたわって、相当大切に大切に使って、何とか100年持たせるようにして頂きたいと願います。

そう考えると「四六時中ガムを噛む」とか「グミをしょっちゅう噛む」といった行為は(人生が60年位で終わっていた1960年代の行為の名残であって)人生100年時代にはもう流行らないのかも知れません。

ガムを噛んだせいで折れてしまって抜歯になる歯を、2日間連続で見てしまった歯科医師の、独り言でした。

一人になりたくて

今日は土曜日で、とても忙しい1日でした。疲れ果てており、家族と夕食を食べた後すぐに布団に入って熟睡してしまいました。

夜中に目が覚めたのですが、仕事や家庭の事を色々と考えていると、今度は眠れ無くなってしまい布団の中でモゾモゾ。

こんな時は私の移動秘密基地、N box + でふらっと深夜の逃避行と行きましょう。

道の駅フルーツフラワーパークは車中泊禁止ですが、深夜のパーキングロットには驚くほど沢山の車中泊車が停まっていました。皆さん(非常に遠慮して)静かに過ごされておりますので、私も含めて大目に見て下さい。本当は車中泊禁止なんだから、ゴミはトイレのゴミ箱に捨てずに絶対に持ち帰ってね。

雨が軽四の屋根に当たる音に何故か癒やされております。仕事も充実しており家庭もそこそこの暮らしが出来ており大きな不満は無いのですが、世のお父様方同様に一人ぼっちで過ごしたくなる時もあります。

軽四の小さな車体なので思い立った時に気楽に出かける事が出来て幸せ。大きなキャンピングカーを見ても全然羨ましいとは思いません。ホンマに。

私の N box +、もうすぐ1年車検になる中古の軽四ですが、私の心を癒やしてくれる最高の相棒です。これからもヨロシクね。

お菓子の値上げは天国か地獄か

「原材料の高騰で、お菓子類の値上げが止まらない」と、今日の日経新聞に載っていました。

本日の日経新聞朝刊より抜粋

予防歯科医の視点から見ると「これで少しは虫歯になる人が減ってくれるかな?」なんて、思ってしまいます。