『コロナ自粛』の問題

緊急事態宣言が解除されて、コロナ自粛に温度差が出てきています。

テレビを捨てて20年以上になる我が家ですが、そんな家庭の私でも5月はネットからのコロナ関連情報によって必要以上の恐怖心感じ、冷静な判断ができていない感がありました。
テレビを主たる情報源にされている方はすぐにわかります。まるで幽霊を怖がるかのように異常にコロナを怖がっていて、ほとんど何も起こっていない三田に住んでいながら「怖い、怖い。」と連呼されているからです。

私は最近はマスクをせずに徒歩通勤しています。ウッデイタウンの歩道ですのでソーシャルディスタンスは充分過ぎるくらい取れるているのですが、それでもマスクをしている人から白い目で見られている感じがして下を向いてしまいます。

三田の広いテニスコートで全員がマスクをしてプレーしているのを見て「あれだけ距離が離れているのにマスクをする意味があるのか?していないと白い目で見られるからするのだろうか?」なんて、ふと考えてしまいました。

以下は長文ですが、なかなか含蓄のある内容ですので良かったら読んで見て下さい。戦争をコロナ自粛とか環境問題とか政治問題とか、ありとあらゆる社会問題の項目に置き換えてみると面白いですよ。

『戦争責任者の問題』昭和二十一年 伊丹万作

さて、多くの人が、

今度の戦争でだまされていたという。

みながみな口を揃えてだまされていたという。

私の知っている範囲では

おれがだましたのだといった人間は

まだ一人もいない。

ここらあたりから、

もうぼつぼつわからなくなってくる。

多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、

それが実は錯覚らしいのである。

たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、

軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。

上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。

すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、

いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 

すなわち、だましていた人間の数は、

一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。

しかもそれは、

《だまし》の専門家と

《だまされ》の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、

いま、一人の人間がだれかにだまされると、

次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なく

くりかえしていたので、

つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、

むしろ国民自身だったのである。

私のような病人は、

ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、

たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、

たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、

親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。

もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、

思想的表現ではないのである。

しかるに我が同胞諸君は、

服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。

そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、

彼らは眉を逆立てて憤慨するか、

ないしは、

眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

 

少なくとも戦争の期間をつうじて、

だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、

だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、

直ぐ近所の小商人の顔であり、

隣組長や町会長の顔であり、

あるいは郊外の百姓の顔であり、

あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、

あるいは学校の先生であり、

といったように、

我々が日常的な生活を営むうえにおいて

いやでも接触しなければならない、

あらゆる身近な人々であったということは

いったい何を意味するのであろうか。

 

いうまでもなく、

これは無計画な癲狂(てんきょう)戦争の必然の結果として、

国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。

そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、

同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。

 

そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。

《諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか》と。

たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、

戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったと言いきれる親がはたしているだろうか。

 

いたいけな子供たちは何も言いはしないが、

もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、

一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 

もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、

戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 

しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 

ここで私はその疑いを解くかわりに、

だました人間の範囲を最少限に見積もったらどういう結果になるかを考えてみたい。

 

もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、

非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、

はたしてそれによってだまされたものの責任が解消するであろうか。

 

だまされたということは、

不正者による被害を意味するが、

しかしだまされたものは正しいとは、

古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

だまされたとさえいえば、

一切の責任から解放され、

無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、

もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、

私はさらに進んで、

《だまされるということ自体がすでに一つの悪である》ことを主張したいのである。

 

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、

半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

我々は昔から《不明を謝す》という一つの表現を持っている。

これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

つまり、

だまされるということもまた一つの罪であり、

昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 

もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、

そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。

しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。

すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。

これが《不明》という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 

また、もう一つ別の見方から考えると、

いくらだますものがいても

だれ一人だまされるものがなかったとしたら

今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。

 

つまりだますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、

戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 

そしてだまされたものの罪は、

ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、

思考力を失い、信念を失い、

家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、

無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、

個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、

すなわち自我の放棄であり

人間性への裏切りである。

また、悪を憤る精神の欠如であり、

道徳的無感覚である。

ひいては国民大衆、

すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 

我々は、はからずも、

いま政治的には一応解放された。

しかしいままで、

奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、

彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、

日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

《だまされていた》という一語の持つ便利な効果におぼれて、

一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、

私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、

おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 

一度だまされたら、

二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、

それ以上に現在の日本に必要なことは、

まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、

だまされるような脆弱(ぜいじゃく)な自分というものを解剖し、分析し、

徹底的に自己を改造する努力を始めることである。